夜の柔らかい肉

空想の生活誌

ゲトーからゲトーへ

半年前に向かいのピザ屋の値段が上がった。その三ヶ月後にその隣のタコス屋の値段も上がった。ピザは一枚12ペソから15ペソへ、タコスは一個6ペソから7ペソへ。ついでにトルタス(タコス用の肉を挟んだサンドイッチみたいなもん、パンはパン屋で最も安い1.5ペソで売ってるbolillo ボリージョっていうコッペパンとフランスパンのあいだのような形状のもの)も25ペソから30ペソに上がった。西暦2016年の末現在1ペソは円にすると5.5円ほどだからそれぞれたかだか15円と5円程度に過ぎない。この路上の店における1ペソごときの物価の上昇とはメキシコシティという街で生きていくことにおいてどういうことなのか。

2017年から最低賃金が80.04ペソに上がるという。http://www.forbes.com.mx/salario-minimo-aumentara-7-pesos/ 一時間でなく一日、で。450円。3.9%の上がり幅(このForbesの記事では73ペソからと書いてあったが、最低賃金国立委員会代表審議会 Conasamiの発表によるとどうやら77ペソからのようだ。よってForbesの端的な誤りである可能性が高い。)。一日80ペソのうちの3ペソ。一日80ペソのうちの1ペソ、ないしは5ペソ。たしかにあくまで「最低」賃金であるため、メキシコシティの飲食店のアルバイトはもうすこし稼いでいる。ウェイター・ウェイトレス全員で山分けするチップも含めて200ペソくらいか、とくに流行っているわけでもない、ふつうの店の場合。さらにはあくまで法的に保障されている最低賃金の枠外で生きている人々も数多くいる。誰もが法律の内部に存在しているわけではない。とりわけこの街にあっては。

ピザを売る彼は14,5歳だろうか、日本の中学生と比べるとより逞しく凛々しく大人びて見えるのは、日々生地を練りピザを焼き続けピザと現金を交換し日が暮れたらその1メートル四方をも満たすか満たさないかの空間を掃除しているからだろうか。彼は笑わない。髪は短く刈り込み、ジーパンにTシャツという簡素な格好でその長い手足を効率良く運用しながら、無表情のまま作業に打ち込む。スペイン植民以前の先住民をルーツとする、メキシコにおける典型的な肉体労働者の徴である浅黒い肌の色が、硬貨を手渡すために距離を近づけるとき新たな印象をもたらす。

Tepito テピートから来ているという。言わずと知れたかつてのゲトーだ。現在では本から下着から煙草から服から売れるものなら何でもかんでも売っている巨大な野外市といった趣だが、明らかな盗品やウィード、ハシシュを超えた化学物質が販売されている昏い部分に過去の危険な残り香を濃厚に留めている。死体が置き去りにされていたというような。しかしそれも過去の話だ。いまや朝方に警官の群れがたむろするだけ。

車で通勤するときは朝方そこを通過し、また電車で行くときはBellas Artes ベジャスアルテスというメキシコシティの中心街を南下する。辿り着くのはIztapalapa イスタパラパ。南に向かえば向かうほど車窓から流れる風景が粗さを増し、というのはどういうことかというと、落書きの面積が拡大するのみならずその擦れが切れ味を増し、すでに劣化して純然たる透明度を失った窓は位置を変えていくほどにより燻んでくるようだ。地下から駅の階段を上がって朝の光を直接肌で感じた刹那、ふと気づくのはごろりとした無機的にすら思える物体。誰かが寝ている。よくあることだ。慣れることでなんとはなしに意識しなくなっていたとはいえ薄々感づいてはいたが、マイク・ディヴィス『スラムの惑星』を読んでいると「30巨大メガスラム 2005年」の1位にめでたくランク・インされていた。

ゲトーからゲトーへ。 というとやや、いや、かなり大げさだが、黴と汗と小便が入り混じってくっ付いて離れなくなった匂いが地下鉄の連絡通路で不意に鼻を刺すとき、自分がいま新しい経験の只中にいる、そんなことをたしかに実感させてくれる。

 

f:id:suzukihidemi:20170108132551j:plain